探求 現代の国語/探求言語文化 付属教材・資料見本
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3発展…発展的な位置づけとなる解説や資料を豊富に掲げました。教材のテーマや、作者・出典の理解につながる資料を掲げました。①頭清の少弁納の言、「職し枕き草に子参」りたまひて、物語などしたまひしに、「夜いたう更けぬ。明日御物忌みなるに、こもるべければ、丑になりなば悪しかりなむ」とて参りたまひぬ。つとめて、蔵人所の紙かう屋や紙がみ引き重ねて、「今日は残り多かる心地なむする。夜を通して、昔物語も聞こえ明かさむ、とせしを、鶏の声に催されてなむ」と、いみじう言多く書きたまへる、いとめでたし。御返りに、「いと夜深くはべりける鳥の声は、孟嘗君のにや」と聞こえたれば、立ち返り、「『孟嘗君の鶏は、函谷関を開きて、三千の客、わづかに去れり』とあれども、これは逢坂の関なり」とあれば、「夜をこめて鳥のそらねははかるともよに逢坂の関はゆるさじ心かしこき関守はべり」と聞こゆ。〈現代語訳〉頭の弁・藤原行成卿が、中宮様のお部屋にいらっしゃって、お話などなさっていたが、「夜がたいへん更けてしまった。明日は内裏の御物忌みなので、こもらいわれる人たちであった。斉の田でん文ぶん、すなわち孟嘗君。    趙の趙ちょう勝しう、すなわち平原君。  魏の公子無む忌き、すなわち信陵君。楚の黄こう歇けつ、すなわち春申君。   彼らは小型諸侯であり、彼らが身辺にあつめた人材も大型はすくなかった。たとえば、孟嘗君は斉の公族だが、斉には稷下のアカデミーがあるので、そこからおちこぼれた二級品を掬いあげることになった。 孟嘗君の名を挙げると、「鶏鳴狗盗」という言葉が、こだまのように返ってくる。 彼は二級でも三級でも、人物はどうでもよく、とにかく一芸に秀でた人間をあつめた。泥棒も物真似も、技芸のなかにはいる。 戦国時代は、各地で産業を奨励し、道路を整備して、交通運輸の便をはかった。そのため、旅行がやりやすくなり、旅芸人や行商人が各地を渡り歩くようになった。 彼らが情報伝達の役をつとめたのである。 村や町でふりまかれる噂が、しだいに上層に達して、諸侯の耳にまで入る。諸侯は諸侯で、各地に諜者を放って、情報をあつめ、それを民間の噂と照らし合わせ、その正確度を測定したものだった。参考資料鶏鳴狗盗教科書(一五二〜一五四)なければならないから、丑の刻になったら具合が悪かろう」とおっしゃって、参内なさった。その翌朝、蔵人所の紙屋紙を幾枚か重ねて、「今日は心残りが多い気がします。夜通し昔話でも申し上げ、明かそうと思いましたのに、鶏の声にせかされまして」と、たいそう言葉も多くお書きになっているのは、実に見事である。ご返事に、「まだ夜深い時に鳴きました鶏の声は、孟嘗君の鶏、つまり偽の鶏でしょうか」と申し上げると、折り返し、「孟嘗君の鶏は函谷関を開かせ、三千の食客がやっと逃れた、と書物にありますが、これは、(私たちの)逢坂の関のことで、あなたに逢った夜のことです」と返事があったので、「まだ夜の深いうちに、鶏の鳴きまねでだましてお通りになろうとしても、あの函谷関ならばいざ知らず、逢坂の関はそうはまいりません。うまいことをおっしゃっても、あなたと私が逢うという名の逢坂の関は決してあなたをお通ししませんよ。逢坂の関には利口な関守がおります」と申し上げた。諸侯は富国強兵をめざして人材集めに狂奔したが、     ょ●その下の支藩のあるじたちも、おなじように有能な人間を迎えようとした。その代表的な例は戦国の四君と史伝②孟嘗君が秦に招かれた背景参考資料3 発展84*言語文化 指導資料(漢文編)

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