探求 現代の国語/探求言語文化 付属教材・資料見本
15/115

とお𠮟りを受けか𠮟も自分とは何なのでしょうか。自己意識はどこから来て、なぜ自分は今ここに存在するのか。人生のそんな基本についてまるで分かっていない自分に、どんな形があるものなのでしょうか。自分を分かっていない自分が自分の形をどう決めるというのでしょうか。私には、若い時分から今に至るまで、自分とは何かを考えれば考えるほど、さっぱり分からない。ところがこの分からないまま自分など考えないのが、自分にとっては良好の状態らしいと、この歳になって気づき始めています。何を考えているにしても、すでに考えている自分が存在するのだから、自分なんてまったく気にかける必要はなく、そのつど与えられた環境で適切に対応している自分のままがいいのではないか、と。ところがデザインの仕事では、とかく個性的な表現を求められる傾向があるので、自分らしさとは何かと考えざるを得なくなる。そこで、自分=自己=自我について考えてみたいと思います。思えば自我は厄介なものなのです。普段の生活で、習慣としてほとんど無意識に顔を洗ったり歯を磨いたりする時にはひっこんでいる自我が、いざ何らかの目的のために「考える」状態に入ったとたん、俺が俺がと顔を出し始めます。正確には無意識にも自我はあるそうですが、ここでは、自分を強く意識した状態としての自我を捉えてみます。そうした意味での自我は、「自分」を意識するスイッチが入った瞬間に目覚めるのです。そして自分が意識されたとたん、困ったことに自我は我欲と直結してしまう。自我が出すぎていないかどうか自覚するためには、教科書(二六〜三二)折あるごとに自分を疑ってみなければなりません。何かよい案を思いついても、その直後に、これは第三者にもちゃんと伝わるのだろうか、と自分を疑ってみる。自画自賛に陥ってはいないだろうか、と。なぜなら、どんな仕事でも本来、こちらの自我をあちらの他者に押し付ける所行ではなく、多くの人々と共鳴するところを冷静に感じ極める作業だからです。もちろん対象によってその程度は異なるし、自分の想いの丈をぶつけていい場合もあります。 例えば自己資金で限定十個の作品を販売するのなら、自我を抑える必要などないでしょう。自分の想いを存分にぶつけた作品に共鳴してくれる人が、この広い世の中に十人くらいなら存在するはずだからです。たとえまったく売れなくても、その責任は自分でとればいい。あるいはその人の作家性を期待されて仕事の依頼を受けたのなら、思いっきり自分がやりたいだけやればいい。ただし、予算や制作期間の問題などで関係者に迷惑を掛けることは、むろん許されませんが。 では、道路標識のデザインはどうか。この仕事を任されたデザイナーの自我はどのくらい必要でしょうか。公共のサインである道路標識は、言葉も価値観も視力も、文化的背景すらも異なる人たちがほんの一瞬見て判断するグラフィックデザインであり、場合によっては命にかかわるものなので、できる限りの普遍性が求められます。つまり、道路標識をデザインする人の「自我」は、どこからも求められてはいないのです。同様のことは、老若男女誰にでも使用される可能性がある嗜好品などについても言えるし、使用する素材の資源の問題やコスト、使用済みになった後の処理にまで考えを及ぼすとすれば、自分勝手が許される余地などその二つとは、弾性と塑性。弾性は、「弾力がある」といった表現で割と耳にすることがあるにしても、塑性のほうは、あまり見聞きしたことがないのでは。どちらも柔らかさではあるものの、その実質は正反対と言いたいほど違っているのです。弾性とは、外部から力が加わって形を変えても、その力がなくなれば元の形に戻ろうとする性質。例えば釣り竿のように。対する塑性のほうは、外部からの力で凹むと、そのままの形を保つ性質なので、加わった力次第でそのつど形状を変化させます。弾性は釣り竿のほかキッチンで洗い物に使われるスポンジだとか、近頃なら形状記憶合金など。対する塑性は粘土や金属一般その他です。彫刻における塑像なる言葉も、粘土が自由に形を変えられる素材であることからきています。弾性と塑性の、どちらも柔らかさには違いないのですが、外部から力が加わった後のあり方がまるで異なります。では、剛を制すとされてきた柔は、果たしてどちらか。元に戻る弾性か、凹んだままの塑性か。人生訓上の「柔」は、これまでほぼ前者の「弾性」をイメージして語られてきたのではないでしょうか。いかなることに当っても自分を見失うな、常に自分の形を忘れず、自分に戻れ、といった具合に。おしなべて「弾性」的な方向での自己実現を目指した教育を受けてきたようにも思います。これに対して「塑性」を人生になぞらえてみると、自分の形などどうでもよく、そのつど変化してもかまわないのだ、となり、そんな投げやりな生き方でどうする、もっと自分を大切にしろ!ない。なるほど「自分の形を持つ」ほうが、一見まっとうな生き方のように感じられます。しかし、そもそほどほどのデザイン評論Ⅰ         13*現代の国語 指導資料(評論)

元のページ  ../index.html#15

このブックを見る