探求 言語文化 ダイジェスト版
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とばくら坪つ内う逍し遙よょう――明治期の小説を通じて文体の変遷  口語文体と小説る方面で〈近代〉 化が進められた。その中の一つが日本語文の改良であった。当時は話し言葉と書き言葉があまりにもかけ離れていたので、両者を近づけるための運動(言文一致運動)が起こった。この運動の中心となり、現在私たちが使用している口語文体の確立に大きく貢献したのは、小説家であった。文体と文脈「和で文あ脈る・」漢調文と脈呼・ば翻れ訳る文口体語を文統体合がし明た治森も末り鷗お期う外がかい「ら舞ま大い姫ひ正め」期のによかうけなて明確治立擬し古た文のやで、あ理っ知たに。支一え方、らそれのた過樋ひ程口ぐちに一いちお葉よう「いたて、けくらべ」のようなしなやかな文語文体などが出現したこともまた、見逃せない。人は言葉で考え、その思考は文脈に表れる。文脈の根幹を成す文体の確立は、近代日本の知を支えたのである。当世書生気質名もあらたまの年毎に 「名も改まり」2余沢近代の文体書き言葉が変わりゆく様子を、明治期の小説の文体を通して概観してみよう。まずは左の「当と世せ書し生せ気かぎ質」を、声に出して読んでみてほしい。⃝1文語体(和文調) 240通どほり路を、走る公く家げ衆しの車くや夫あり。……lゆぢきはげりうろひしとらろりほん|いよいうたぼち う  1 ちしたいょいう田だ説で美びあ妙みょるうがが「冒、で 頭七すに五」調挙調をげを試た多み坪用る内すな逍るど遥な、「ど当主、世に伝書文統生末的気表な質現文」を体は中の、心強西にさ洋実がの験感〈がじ小繰ら説りれ〉(返るnさ。ovれそe、のの最後翻終、訳的二ふ語たに葉ば)尾お亭てをい崎ざ四し意き紅こ迷め識うい葉よがし「うらただに最」よ調初っを期、のて小、山やまの さ、ま都ざもまいにつ移かれ東ば京変かと、る名浮う1も世よあかならた。ま幕の府年とさか毎ごにえ、し時こ開ひけ勢ほにゆはく、世武の2士余かの沢げみな時れやに大。江貴き戸賤せ上下の差けめ別もなく、才あるものは用ひられ、名を挙げ身さへたちまちに、黒く塗ぬ馬車にのり売うの、息子も鬚ひを貯たふれば、何の小こ路ぢといかめしき、名前ながらに大おくはるま書生の小こ町ま田だが、小町田家の没落を救うために芸者となったお芳よと再会し恋仲となるが、そのために休学となる。と、「年」の枕ま詞こ「あらた まの」を掛けた、伝統的な文章表現。 恩恵。 明治の開国に伴って、欧米の文化が大量に入ってきた。その新しい時代に対応するため、あらゆ42 一八八五(明治18)年⃝1当た世せ書し生せ気かぎ質(冒頭)

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